来世への旅路(1/8)


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序説

西暦632年に逝去したイスラームの預言者ムハンマドは、次のように語っています:

“ガブリエルが私を訪れてこう言いました:‘ムハンマドよ、あなたはいずれ死ぬのだから、自分の望むように生きなさい。あなたはいずれ旅立つのだから、自分の望む者を愛しなさい。あなたはいずれ清算されるのだから、自分の望むことをしなさい。夜間の礼拝12 6:59)

先の諸預言者に下された啓典である律法、詩編、そして福音は全て来世について言及しています。そして私たちは神の最後の預言者であるムハンマドに下された最終啓示であるクルアーンのみによって、来世に関する最も多くの知識を得ることが出来ます。クルアーンは永久に人の手による改竄から守られており、そこから得られる不可視の世界に関する情報は信仰者にとっての真実であり、科学的研究によって得られるいかなる事実にも勝るのです。

“啓典の中には一事でも、われが疎かにしたものはない。やがてみな彼らの主の御許に召集されるのである。”

(クルアーン 6:38)

「私たちが死んだ後はどうなるのか」という質問と共に、「私たちはなぜここにいるのか」という質問も生じます。もしただ生きるだけの人生よりも、人生そのものに大きな意義がないのであれば、死後どうなるかという質問は、無意味ではないにしても学究的なものとなってしまうでしょう。しかしもし私たちが“知的設計(知性ある設計者である神によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説)”や、私たちの行いを審判する創造主が存在する“創造”の概念を受け入れさえすれば、この地球における人生は重要な意味を持つのです。

“あなた方は、われが戯れにあなた方を創ったとでも考えていたのか。またあなた方は、われに帰されないと考えていたのか。アッラーは、尊くて気高い、真実の王者である。高潔な玉座の主を置いて他には神はない。”

(クルアーン 23:115−116)

そうでなければ少しでも洞察力のある者は、この世の人生は弱肉強食の掟が最も重要であり、不正、迫害、残酷さに満ちたもの、あるいはそこにおいて物質的快適さ、肉体的情愛、その他の享楽などの現世での喜びを見つけられなければ、生きる価値はないと判断せざるを得ないような人生になってしまうでしょう。事実人が現世において絶望し、自殺にまで至るのは、来世への信仰を持たない、あるいはその信仰が完全でない場合においてなのです。何といっても、不幸で、愛されず、求められてもおらず、かつ落胆した上に絶望し、その末に意気消沈した者に失う物などないのです。3

“迷った者の他は、誰が主の御慈悲に絶望しましょうか。”

(クルアーン)

では、私たちの死は単に生理学的な結末ということに過ぎないのでしょうか?あるいは私たちは、生命が単なる盲目で独りよがりな進化の結果であると認めることが出来るのでしょうか?いいえ、生と死にはそれ以上のものがあることに疑いの余地はないのです。

FOOTNOTES:

  1. 一日5回行なわれる礼拝(サラー)において、最後の礼拝(イシャー)の後、最初の礼拝(ファジュル)の前に行なわれる、夜間の任意礼拝のことです。夜間の最後の三分の一が最も適している時間帯です。
  2. 人工的に心臓を鼓動させて血液を送り出すことは可能ですが、もし脳死状態となれば、その存在自体も死の状態となります。
  3. 国連による‘世界自殺予防の日’レポートによると、自殺による死者は、戦争と殺人の双方による死者の合計を上回るとされています。毎年2,000万人から6,000万人の人々が自殺を試みており、その内の約100万人が自殺を完遂していると記録されています。(ロイター通信 2006年9月8日付)



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